[01
誰も居ない霧の中で呼吸をするように、僕はずっと隠れていた。
どれだけ叫んでも届かない霧の奥の中から外界を見ていた。
ただ、深い霧の中に逃げてしまっていた。
もうその霧の中には誰一人いない、僕だけしかいない。
"ただ一人"一緒にいてくれた"彼女"には、もう"隠れるもの"なんて要らない。
この醜い姿を隠せるところを探していたのだ。
誰も居ない深い霧の中に、僕は一人佇んでいる。
[02
玄関のドアを開けると深い霧が立ち込めていた。
湖の底のような、森の奥のような、霧が町を包み込み真っ白になっていた。
若い人は皆、都市部へと出て行き高齢化が危ぶまれるこの寂れた漁村。
僕の住むマンションの三階から見える小さな高校も今日は影さえ見つけることが出来なかった。
すぐ傍にある海岸から届く海の匂いはもう僕の体に染み付いてしまっている。
後ろから母さんが「すっごい霧ねぇ、気をつけなさいよ」という心配そうな声が聞こえた。
僕は分かった、と適当に返事をして、錆の目立つ青いドアを閉めた。
僕はマフラーを深く首に巻き、冬の空気を深く吸った。
霧のせいで町はひっそりと静まり返ったように息を潜めているようだった。
いつも鳥しかいない波止場も雑然としていた。
僕は高校までの道のりを十五分歩く。
波止場から郵便局の横を通り、寂れた商店街の中を抜け、高台の公園の向こうにある高校を目指す。
見慣れた地面、いつも避けて歩くコンクリートのひび割れ、去年の春からいつまでも工事中の建物…。
僕が生まれたときからこの町は何も変わっていない。
ただ、人が減り、どんどん寂れていくだけだった。
近くに駅がないため、この町に住む中学生達は皆この高校へ進学する。
町を出て行き市外の高校に進学する友人に冷たい視線を送ることは毎年恒例なのだ。
僕もそんな視線を町を出て行く友人に送っていた。
『逃げるんだろ、卑怯者』
この町に逃げてはいけない理由なんて何も無い。
この閉鎖した町から逃げると決断した彼は卑怯者なんかじゃない。
分かっていても、出て行った友人は皆から無視される。
それによりまたどんどんこの町の人口は減っていく。
寂れた町に残っていくのは心まで廃れていくことに気がつかないモノだけなんだ。
僕もその一人、僕も廃れている。
[03
「友哉、おはよう」
「あ、おはよう、美奈」
シャッターばかりの中一軒だけ開いている薬局。
その前で立っていたのはクラスメイトであり、幼馴染の美奈だった。
ショートカットで肩の辺りで髪を切りそろえた彼女は、そのまま僕の横に並んだ。
「今日は霧がすごいね」
僕は差しさわりの無い言葉を投げかける。
「そうね、こんなに深い霧は久しぶり」
「今日は何で波止場にいなかったの?」
「ちょっと、用事」
彼女は手袋をした手で口元を押さえた。
少しの沈黙のあと彼女は僕に視線さえ向けずに言う。
「今日の帰りは一緒に帰れない」
「分かった」
僕も視線を向けずに頷いた。
二人の足音だけが響いていく。
その日、二限目で彼女は早退した。
あとで理由を訊くと「熱が出た」とだけそっけなく返された。
彼女の早退した後、僕は全国模試で二位を取ったことを知らされた。
[04
美奈と哲雄が付き合い始めた理由は簡単なものだった。
"優しいから"
"家まで送ってくれるから"
"カッコいいから"
そんなの僕にだって出来るのに。
僕は何も言わずため息をついた。
[05
霧の中、僕は一人歩いていた。
昼を過ぎ、下校の時間になっても霧は晴れなかった。
それは僕の心のように重くずっしりと留まっていた。
そんな中、小さく雨が振り出し僕は少し小走りになって郵便局に駆け込んだ。
引き戸のドアを開け簡素な中に入る。
びしょ濡れになって駆け込んできた僕を見ても郵便局内は無反応だった。
ちろりと僕を見てすぐに自分の手元に視線を戻す店員たち。
僕はぼんやりと濡れた鞄と学生服をタオルで拭きながら前面ガラスの入り口のドアを見ていた。
雨は本当に小雨でもうすぐ止みそうだった。
僕はふと波止場に誰かが立っていることに気がついた。
(…誰だ?)
よく見るとそれは二人だった。
だがそれは一人に見えた。
小雨の降る霧の中、波止場の真ん中で佇むようにいる二人。
僕は目を細めて、もっとガラスに顔を寄せた。
抱き合って一人分の影しか見えないのだ。
アレは誰だ。
――そして僕は心の奥底から霧になって消えてしまいたいと思った。
霧の中、小雨の中、二人はキスを交わしていた。
美奈と哲雄は、波止場にいた。
[06
「まあ、友哉、傘持っていかなかったの?」
「ああ、うん」
「風邪ひくわよ、風呂入ってらっしゃい」
――あの二人も風邪をひくのだろうか。
雨の中、傘も差さずに、ずっと外にいて。
でも、二人は幸せなんだろうと思う。
どれだけ寒くても、二人で暖かいのだと思う。
僕はどんなに暖かい湯船につかっても、冷えた体は温まらなかった。
哲雄と美奈が付き合っているのは知っている。
というか本人から聞いた。
『岩倉君と付き合い始めた』
…岩倉というのは哲雄の苗字だ。
美奈は世間一般で言う美人の部類にピッタリ入るほど、綺麗だ。
気が付けば隣に男子がいて、皆の話の中心は美奈だった。
しかし、何回付き合っても彼氏とは長続きしないのだ。
最短は告白して承諾してもらったその十秒後、という記録が残っている。
そのため、美奈は基本クラスの女子から嫌われている。
そりゃそうだ、その美奈が振った男子の中に、自分の元彼氏がいたら怒るだろう。
クラスでは女子とはかかわりを持たず、男子と一緒にいる。
気さくな性格でサバサバしているため、何を言われようとまったく気にはしていないようだった。
しかし、美奈が女子に嫌われているように、僕も男子に嫌われている。
何度か、美奈の元彼氏に殴られたことがある。
僕は何も抵抗しないが、流石に何度も殴られていると痛い。
『お前は付き合ってさえいないのになんで一緒にいるんだよ』
それを言われると自分でも不思議だ。
僕は美奈のことを好きなんだろうか。
美奈は僕のことをどう見ているのだろうか。
――友達以上恋人未満、この言葉を考えた人に感謝したい。
でも僕と美奈は友達以上でさえ無いのだ。
それでも僕らは一緒にいる。
理由は誰にも分からない。
[07
美奈が僕に何か本心を語ったことは無い。
僕に心さえ開いていないのだと思う。
また繰り返される朝。
深い霧が町を覆っていた。
美奈と僕が波止場の前を通りかかったときだった。
「友哉、ノート貸して」
「いいよ、何の?」
「何も書いてないノート」
彼女はそう言って僕に手を差し出す。
いまだ霧に飲み込まれている波止場の前で彼女は無表情のままだった。
僕は適当にノートを差し出した。
彼女はパラパラとページを捲るとあるページで手を止め青いペンで何かを書き始めた。
「どうしたの?」
「ちょっと、待ってて」
ノートの背を手で押さえながら書くのはとても難儀そうだったが彼女は真剣に何かを書いていた。
僕はその間波止場を見ていた。
「はい、家に帰ったら読んで」
「…分かった、で何書いたの?」
「家で読んで、そうしたら分かるから」
彼女から返されたノートを僕は胸に抱き、また僕らは高校に向かって歩き出した。
[08
古い階段を上がり角を曲がると僕らの教室に着く。
廊下には何人か話をしている女子がいた。
僕と美奈は少し距離を空けながら一緒の方向歩いていた。
ある女子のグループとすれ違った、そのとき。
「―――」
僕の耳にも届いた。
美奈は足を止め目を見開いてその女子を見つめた。
その卑猥な言葉は美奈に投げかけられている。
僕は後ろで立ち止まり、美奈とその女子達を見ていた。
「何?」
「だからあんた、―――なんでしょ?」
「一回何円ぐらい?」
「だから何なの?」
「…否定しないの?」
気がつくと、美奈はすぐにその女子達に囲まれてしまっていた。
僕はその後ろで立ちすくんでいた。
「あんた、昨日波止場でキスしてたじゃん」
「だから?」
「あのあと、家に行ったんでしょ?」
「そうよ、それで?」
美奈がそう返事をすると女子達がキャーと声を上げた。
美奈が認めたと思っているんだ。
突然一人が思いっきり美奈の首元を掴んだ。
苦しげにう、と声をあげる美奈。
首元を掴んでいる女子が大きく怒鳴った。
「この―――、死んじゃえ」
「お前らこそ死ね」
美奈はそう言って思いっきり相手の顔を殴った。
その打撃は相手の頬にストレートで入り、これだったら岩でも砕けそうな勢いだった。
不意に反撃してくると思わなかったのか相手は倒れて廊下の壁にぶつかる。
周りの女子は突然のことに呆然としていた。
僕はまだ、後ろで立ちすくんでいた。
「あんた何を…!」
「殴っただけよ、うるさいわね」
女子達は倒れこむ一人に集まり、美奈を睨んでいた。
美奈は無視して平然とそう言うと、教室へ向かって歩き出した。
美奈がそのまま教室に入ろうとした、そのとき。
一つのスリッパが美奈の頭を直撃した。
「―――が!」
「うるさいわよ、負け犬」
美奈はそう言って教室に入っていった。
僕はやっと歩き出した。
廊下に一足のスリッパが残っていた。
[09
その日、美奈は職員室に呼び出された。
そのまま、教室には帰ってこなかった。
僕は家に帰って、ノートを開いた。
最後のほうのページに青いペンで書かれた文章。
『私と友哉は付き合えない。
友哉はいつでも私と一緒にいてくれたけど
友哉はいつまで経っても友哉だから。
友哉が私のことを好きだってことは
ずっと前から知ってる、知ってるからこそ
付き合えない。
私は町を出ます。 美奈』
これが彼女の本心なのか?
[10
次の日、波止場に美奈はいなかった。
学校に行っても美奈は現れなかった。
僕はいまだに晴れない霧の中、ノートの言葉を思い返していた。
彼女は町を出た。
もう二度と帰ってこない。
でも、彼女を冷たい視線で見ようとする僕はいなかった。
彼女は、この町から脱出できたのだ。
いつまで経っても、霧の晴れないこの町を。
ただ寂れるだけの運命に縛られた、変わらないこの町を。
霧の中で一緒に毎日通った通学路。
僕は一人で立ちすくむ。
誰もいない霧の中で僕は一人ぼっち。
美奈のように一歩を踏み出す勇気も無く。
美奈から発せられた、言葉を受け取らず。
「深月友哉、美奈は何処行った?」
「…知らないよ」
「お前知ってるんだろ?」
波止場に突っ立っていた僕は唐突に話しかけられた。
岩倉哲雄は学制服のまま、僕に威圧的に言う。
「メールも届かねぇ、美奈は何処にいるんだ!」
「町を出たよ」
岩倉哲雄はそのまま何も言わなくなった。
そしてまた霧の中は僕だけになった。
そう、僕は桐原美奈が好きだった。
彼女が消えてしまってから僕は何度か泣いた。
ノートの手紙は暗記できるほど読み返した。
しかし、彼女に思いを伝えることはもう出来ない。
彼女と二人っきりで霧の中を歩いているときにこう言えば良かったのだと。
「好きだ」
でも美奈は僕の誘いを断るだろう。
だって僕は何処まで行っても僕なのだから。
彼女は呆れかえって言うだろう。
「友哉とは付き合えない」
そう、だから美奈は岩倉哲雄と付き合っていたのだ。
カッコよく、自分から行動して、美奈に好きだと言うことの出来る岩倉哲雄と。
何も行動出来ないような弱い存在である僕のことなんて、すぐ忘れるだろう。
僕はまだ霧の中から出ることは出来ない。
[11
誰も居ない霧の中で呼吸をするように、僕はずっと隠れていた。
彼女が何かしていても、僕は何もしなかった。
ただ、深い霧の中に逃げてしまっていた。
もうその霧の中には誰一人いない、僕だけしかいない。
"ただ一人"一緒にいてくれた"彼女"には、もう"隠れるもの"なんて要らない。
この醜い姿を隠せるところを探していたのだ。
誰も居ない深い霧の中に、僕は一人佇んでいる。
[12
ただ、それだけで終わる話。
彼は何も成し遂げなかったのだ。
逃げられただけ…。
弱い弱い一人の人間の話。
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