「橘、読んで、コレ」
「何ですか? 大学祭の作品ですか?」
「そう、一回試し読みして」
「へえ、今度は何を書いたんです?SF?」
「違うよ、兎に角読んで」
橘は嬉しそうに印刷された原稿を受け取ると、すぐさま読み始めた。
私も橘も小説に関しては目が無いのだ。

これは告白できない女の話、これは私の話だ。
橘は分かるだろう、早くこの関係を終わらせるのだ。
終わらせて、私はもう橘と一緒に居られなくなる。
それでいい。
そう、それで。

橘が読み始めて、小一時間経ったときだった。
ガタン、と荒々しく椅子が倒された。
私はコーヒーを飲んでいたカップを置いて橘のほうを振り向く。
「橘…?」
「ッ、癒月、センパイ…!」
「どう、したの?」
「いやだ、僕は…!」
私は初めて橘が本気で怒っているところを見る。
全てを理解した橘は倒された椅子を乱暴に蹴った。
さっきよりも激しい音がサークルの部屋に響く。
誰も居なくて良かった、まあほとんど人の来ないサークルだけど。
(そんなこと考える余裕、あったのかなぁ…)
「僕は…」
「橘、それは言っちゃダメなんだよ」
「何で、」
「橘、」
私は諭すように優しく言った。

「橘、それは言っちゃダメ。
それを言ったら全て壊れるから。
この関係はいつでも不安定なものだったし、いつ終わってもおかしくなかった。
その終わりが今日なだけ。
別段驚くこともない、私は昨日一人で泣いたの。
終わることが、こんなにも怖いだなんて、初めて知った。
だから、終わらせよう?」
「……だ、…ゃだ、」
「橘?」
「いやだッ!」
「っあ、」

ダァン、と私は壁に押し付けられる。
橘が涙をボロボロと流しながら私の手を壁に縫いつける。
背中が壁に打たれてジンジンと痛かった。
目の前に立ちはだかる橘の身体。
――橘ってこんなに大きかったっけ。
きっと、私は気づこうともしなかったんだなぁ。
こんなにも変わって来ていたことに。
やっぱり終わらせないと、いけないのかな。
橘は泣き叫ぶように、私に言う。
「いやだ、いやだいやだ!僕は、」
「姫野ちゃん、いるでしょ?姫野ちゃんと仲良くしなくちゃ」
「姫野は、姫野は違う!癒月センパイ…ッ」
「いや、違わないよ。私じゃダメなの、私は『及川のモノ』だから」
「そんな…」
「橘は『姫野ちゃんのモノ』。ほら、私たちって違うでしょ?」
「それでも、この関係は続けられます!」
「無理だよ、私は橘の変化にも気づけなくなってるの」
「え…、」
「橘の気持ちが変わってることにも、私の気持ちが変わってることにも、」
私は精一杯笑った。

「ぜーんぶ、気づいてないの」

橘は絶望したような顔になった。
そして早口で私に縋りつく。
「僕は気づいてます、そこから新しく始められます、そんなの、」
「橘が気づいてても私は気づいてない、私は絶対気づいちゃいけないの」
「いやだ、そんなの、センパイは僕をこんなに変えておいて、逃げるんですか?!」
「バイバイ、橘、ありがとうね、今まで」
「いやだ、いやだ!」
「及川のところに行くの、放して」
「及川サンなんて死ねば良いんだ!なんで及川サンなんだ!」
「私はね、及川のことが好きなの、彼と一生過ごすことにしたの」
「僕は…」
「彼を殺したら、橘を殺しに来る」
橘は言葉を失ったように全身の動きを止める。
私は橘の捕縛から抜け出し、優しい笑みを浮かべた。

「それだけ、彼を愛しているの。橘のことはこれっぽっちも愛していない、の」

躊躇なんて、無かった。
私は背を向け、ドアに向かって歩いていく。
橘は壁に背を向けたまま、動かなかった、否、動けなかった。
私は呪詛のように繰り返していた最後の謝罪をつぶやく。
「ごめんなさい、橘」

「――何で、あの時のままでいられなかったんですか。
いっつも一緒に昼食を食べて、夜な夜な泊まりに来て、毎晩キスをして。
何で、あの日のままでいられなかったんですか。
本当の気持ちに気づかず、ずっと僕と一緒にいて欲しかった。
センパイは気づく相手を間違えています。
僕はセンパイのことが、」

私は部屋を出た。








それは世界の始まりで、小さな変化だった





Title by 星が水没